【語録】法燈国師坐禅儀

【語録】法燈国師坐禅儀

先ず初心の人は念起坐禅ということを心得べし。其の初めをよくよく見るに、晴れたる天に始めて雲の起こるが如し。総て其の由来なし。只晴れたる虚空の如し。譬えば真心は虚空の清浄なるが如し。総て其の由来なし。妄念は万像の顕るるが如し。心は即ち体なり。大樹の根本の如し。念は即ち用なり。枝、葉、花、果、色、香に似たり。是心すべて色形なし。

然れば華厳経に清浄法界心と説きたまう。又三世唯一心、心外無別法と説きたまう。又心は工なる画師のいろいろの彩色を作すが如しと説きたまへり。一切は一心より生ず。生滅の始終なし。故に有と説き無と説く。

虚空の如くなる心中より善悪の法おこるなり。十界に六凡四聖の相わかれたり。六凡とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天なり。四聖とは声聞、縁覚、菩薩、仏なり。諸法ひろしと雖も、是を過ぎず。皆衆生の心中よりあらわれ出づるなり。心は色も形もなけれども、その念のおこるに随って地獄、天堂の相、菩薩、仏のへだてあり。譬えば嫉妬の心深き女の執心が、ねたむ所の家へ行き、蛇とあらわるるが如し。万の形を造り出して種々の苦をうくるなり。是を以て知るべし。一切は唯心の造り出すことを。

然れども念を以て生ずる法なれば終には滅するなり。故に云く、諸法は夢の如く幻に似たりと。夢幻には真なければ始なく終なし。外縁の境界に向かいて善悪の法おこれども、起こる源をたづぬれば、其の実は始もなく終もなし。念の起こるに随って十界の相あれども、滅して後は夢覚めて何もなきが如し。夢の事、実なけれども、天堂をゆめみては悦びたのしみ、地獄をゆめみては苦みたえがたし。念の起こるは夢を見始むるが如し。故に仏も生死は夢の如しと宣べたまえり。衆生は常に悪夢のみ見て、三途八難の苦をうくるなり。

諸仏は念の起こる源を知たまいて、悪夢を見たまわす。是を無念無心と云う。念なければ生死なし。心なければ種々の法おこることなし。此の心の源を知るを、見解とも悟道とも、生死を出離するとも、解脱とも世尊とも如来とも成仏とも云うなり。夢のさめざるほどは、有心無念と思えども、さめて見たれば皆虚なり。仏と思い衆生と思い、悟と思い迷いと思い、有と思い無と思う、其の源を悟り得れば、又無念無心と云うべきものもなし。其の時始めて知る、虚空の如く清浄なることを。虚空は始もなく、終もなく、又中間もなし。無の中には清浄もなく、垢穢もなし。法として取り定むべきものなし。只虚空の中に日月あらわれるが如し。万物は真の法にはあらず。本来歴然としてなり。

是を古人、如何なるか是仏と問えば、庭前の柏樹子と答え、又柳は緑、花は紅とも答えたり。さあればとて是こそ仏法よと取り定むべき法なし。然れば古人把定せんとすれば、雲、谷口に横たわり、放行せんとすれば月寒潭に落つと云えり。是の如き事を、我と疑いなきように見明らめんと思う志深き人を、道心者とも、仏法者とも、禅門とも入道とも坐禅者とも云えり。是の如く志深き人は、万人が中に一人も少なるべし。此の疑い破れざる人を凡夫とも愚者とも生死に流転すとも云うなり。かなしきかな明日を知らぬ身を惜しみて永く生死の闇に迷い、いつを限りと云う事もなく六趣の夢をのみ見いたること誠に愚なるか。

然れば釈尊は位をすてて、此の法をさとりたまう。達磨は宝珠を捧げて此の法を明め、慧可は雪に立ちて臂を断って此の理を得たり。志深ければ刹那に明むることなり。生生世世、実を惜しみて、今まで生死の闇はれず。此度仏法にあい知識に遭うとき、身、命、財を捨てず、世上の営みのみなさば、永劫多生又此の如くならん。慎むべし。

坐禅の趣、大方これに過ぐべからず。只生死の疑を開かんこと、道心のあるとなきとのかわりなり。男女によらず、貴賤をえらばず、只身を捨てて、此の大事を勤むべき志だにあらば、悟を得ることは掌を返すが如くなるべし。悟りがたきことを歎くべからず。曠劫多生の間志浅く道心おこらざることを歎くべし。我が心ながら拙きかな。口惜しきかな。如何せん。誰をか怨まん。願わくば世路をすて道心をおこすべし。此れを思え、此れを思え。

(改行は適当です)


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