お寺ボードゲームができるまで その1(宗教とゲームを扱う姿勢、と歴史) #お寺ゲーム

03お寺ゲーム

みなさん、こんにちは。ようがくじ「不二の会」代表の向井です。
ゲームマーケット2015秋に出展申込みをいたしましたところ、当選。入稿も完了し、あとは問題がないことを祈るのみです・・・(アッ、説明書がまだ・・・)。

さて今回は、【お寺ボードゲームができるまで その1(宗教とゲームを扱う姿勢、と歴史)】について、お話ししたいと思います。お寺ボードゲームをつくるまでに行ってきたこと、考えたことをざっくりと書きました。大事なことは、仏教のことも、ゲームのことも、軽んずるような意識はないのだということです。ご笑覧ください。長くなり、重複している部分もありますが、太字のところだけ追えば分かるようにしました。

そもそもゲームじゃなくても良かった

わたしはお坊さんです。お坊さんとしての仕事、布教。わたしたちは様々な布教の方法をとりますが、今回、多くの方にお寺の文化へと触れて頂きたく、みなさんと遊んでいただける『お寺ボードゲーム』という形を取ることにいたしました。でもですね、

・・・じつは・・・はじめはゲームという手法をとるつもりはありませんでした。

コラム「いっしょにやる。」

世の中では、とある目的を達成するために、いろいろな方法がとられることがあります。たとえば、宗教、伝統文化や学問側から、興味の薄い人々に対して「我々の分野に入ってきてほしいので敷居を下げたい」という目的があるとします。その目的を達成するために、本の出版・CMをうつ・ワークショップをする・facebookの発信をする・・・など行うかもしれません。

お寺業界、特に臨済宗や曹洞宗といった禅宗系、では目的はどうあれ、まず「坐禅会(座禅会)」を行うことが大事だとしています(卑山でも機会を設けております)。ほかには、著名人やお坊さんによる法話会・講演会。付随して客寄せパンダ的な形でコンサートがくっつくことも。展覧会などもそうでしょうか。

そもそも、修行・儀式・教えを、そのものの形とは違ったもの(本、おはなしなど)として表現することは難しいことです。宗教なにがしかを別の形にすることは難しい。なぜなら宗教なにがしかの思想・信仰・概念の線引きが難しいことと、違ったものという枠に宗教なにがしかを入れ込むことにも多くの困難があるからです(前半:この思想について(どこまで話す?それで思想をカバーしたことになるのか?ただしく私は理解しているか?etc.)/後半:こういう伝え方をしよう(WSの方がいいか、説法でいいか?思ったとおりに伝わっているか?etc.))。

しかし、それでも、多くの方に仏教や仏の道の存在をお伝えしたい、触れて頂きたい、といまでも日本の僧侶たちは努め修めています。法事や葬儀、ウェブ上での発信以外に、未熟者ながら私もなんとか出来ないか・・・。

そこで考えたこととのひとつが、ボードゲーム。・・・・ではなくて、「ひとこと法話カード」でした。坐禅会、ヨガやお茶。また法事やお墓参りでいらっしゃった方にお渡しできるお土産をつくりたいなと思ったのです。

そして、つくっている内に思いました。「はがき伝道(はがきに仏教のお話しを印刷したものを、檀家・信徒さんたちにお送りする)」に似ているわけだけれども、月日が経てばカードは増えていくだろう。増えたとき、集まったとき、より良いことが起きたらいいのではないか。また、別の形で使えるようなものにすれば、興味がない人の目にも触れてもらえるかもしれない。・・・トランプかな?そこが今思えばゲーム化のはじまりでした。

仏教ゲームがあらわれた!レベル2|ポストカードを手土産に。仏教ゲーム、1ターン目|はじまりはじまり。

 

ただ・・・トランプにも限界がありました。トランプはスート(ハート、ダイヤ、クローバー、スペード)各13枚、ジョーカーなどいれて・・・など、枚数との兼ね合い。(仏教語に落ちつきますが)なにをカード上に載せるか?どうやってお渡しするか?・・・など考えます。50枚分くらいしか紹介できない上に、トランプはトランプ。仏教語はたんなる柄に過ぎず、かるたのように読んではくれないかもしれない、と。50個紹介できたとしても、読んでくれないならば目的を達成できない。それならば、トランプのように遊べるようなもの。「はじめから、遊びながら学べる・触れるものを作ってしまおう」と考えたのでした。それが1年前のことです。

なにか良い形はないか・・・調べていると、キリスト教のカードゲームを知り、アナログゲームという形と出会ったのでした。アナログゲームとはコンピュータを使わないゲーム全般の名称(Wikipedia-アナログゲームより)で、まさに仏教やお寺に触れる機会としてうってつけではないかと思いました。なぜなら、遊んでいると分かったことがあったのです。それはゲームごとにストーリー・モチーフ・ルールがしっかりと存在していること、その存在がゲームをゲームとして成り立たせている重要な基礎として扱われていること。ストーリーやモチーフを、テイストとしての味付け・柄にただ使用しているだけ・・・ではなかったがゆえに、面白さも担保されていたのです(たとえば、チケットトゥライドは各国の鉄道網を、パンデミックは世界規模のウィルス感染を)(コンピューターゲームですが、信長の野望は戦国時代を、大航海時代や三国志はそのままですね)(もちろん、ストーリーやモチーフが後づけのものもあります)。

しかも、みなでゲームを遊ぶためには心をひらき、楽しむ気持ちがとても大切です。そんな状況において、仏教やお寺をテーマ・ルール・ストーリーとしたゲームをプレイしていただけたなら、スッと理解していただけるのでは?しかも、コンピューターも使わず、対面して家族や知らない人同士が遊ぶことができる。未知の領域への入り口として、分かりやすく、親しみやすい方法としてアナログゲームは適切だと思ったのです。

遊んで楽しいもの、軽んじていないもの-宗教とゲームを扱う姿勢

世に知られている考え方のひとつに、「世の中にあるすべてのものはアイデアのかけ算だ」というものがあります。どのようなかけ算かといったところで異論があるようですが、「名前のついた、世の中にあるもの=思想や概念といった目に見えないもの×見せ方」というかけ算の式があったとします。この式に仏教関連を当てはめたとしたら「法話や講演会=仏教×おはなし」「坐禅や写経会=仏教×WS」「仏教書=仏教×本」「ぶっちゃけ寺=仏教×テレビ番組」「仏像ガール・御朱印ガール=仏教×~ガール」でしょうか。

かけ算の“仏教”の線引きや“見せ方”の部分について、気をつけなければならないことは承知しております。たとえば、現在民放にて放映中のテレビ番組について批判される方がいらっしゃることも存じておりますし、またその逆も然りです(NHKならいいのか、というお話しも別に存在しています)。

ゲームであろうとも、宗教団体の企画であろうとも、仕事であろうとも、ものごとを扱う姿勢は大事である、気をつけねばならない点だと思っております。けして仏教や宗教そのものを軽く扱おうという気持ちがあるわけではありません。敷居を下げることと軽く扱うことを同一視してしまう場合があるかもしれませんが、信仰のなかに暮らしていらっしゃる方々、仏教が平成の世まで連綿と続いてきた歴史などを、否定するものにはしたくないと考えています。また、どのような形であれお坊さんが監修すれば大丈夫だ!そもそもとは違った形として、いかようなものでも表現することを慈悲深い仏さまならば許して下さる・・・と考えているわけでもありません。しっかりと範囲を限定していきますし、仏教を軽く扱うようなことはいたしません。

また、お寺ボードゲームを作ると申しましても、純粋に遊んで楽しいものをつくりたいと考えています。このお寺ボードゲームによって特定の宗教の勧誘を激しく行おうとか、知育ゲームのように教育をしようという意図はありません。提示、紹介をしたいだけなのです。

そうは申しましても・・・布教方法の一つなので、たしかに勧誘と言えるかもしれません。「これをきっかけにお寺へ足を運んでみて下さい、親御さんや親戚の菩提寺(**家のお墓があるお寺)に行ってみてください」・・・とお話しするでしょう。しかし、はげしく勧誘をしたいわけでもなく、仏教を軽く扱うようなことをしたいわけでもなく、ボードゲーム自体の品位を貶めるつもりもないのです。やさしい勧誘なのです。

「知ってほしい・親しんでほしい」と「宗教の勧誘や教育」の線引きについては難しいものではありますが、みなさんに思想や概念を無理矢理に教え込むようなものを作る気持ちはまったく無いのだ!ということだけはご理解いただければと存じます。フレーバー、モチーフやストーリーなど納得感のあるものをと考えて製作しております。ゲームにおいても、法話においても、どのような仕事においても、意味や理由や道理が大切なことに変わりはないようです。

以上、わたしにとっての仏教とボードゲームのかけ算の意味や筋道についてお話ししたわけですが、理解されない方もいらっしゃることは存じております。これもいいのでは、これもいいのでは、と許容範囲を広げていくと間違いがでてくることもあるでしょう。お寺ボードゲームがまさにそれだと考える方がいらっしゃるかもしれません。わたしもそうなのでは・・・とも考えました。

しかし、仏教と遊戯の親和性ははるか昔よりあったようでございます。日本におけるゲームの歴史を調べてみますと、不思議なことに仏教が出てくるそうです。

歴史:仏教と遊戯のつながり

すごろく。すごろくには見た目で2種類あり、盤双六と絵双六というものがあります。われわれにとって馴染みのあるすごろくとは、絵すごろくのこと(大河ドラマの平清盛で、盤双六が出ていましたね)。

いつの時代からかは定かではありませんが(13世紀後半・室町時代?)、いまの日本の伝統仏教の信仰の歴史のなかに、仏教を紹介・説明する絵スゴロクが存在していたようです。

ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』などには)浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時浄土双六には大きく分けて4種類あったとし、ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には元は天台宗で初学の僧侶の学習のために作成された「仏法双六」が原型であったとする説を伝えている。(Wikipediaすごろくより)

「修行をして悟る/なにがしかによって極楽浄土へゆく/順番に進む(ものごとを進めてゴールに到達する)」ことを理解してもらうための方法として、双六は有用だったようです。浄土双六・仏法双六・極楽双六・地獄双六など検索していただけるとたくさん出てきます(現代においては、祖師(宗派のはじまりをつくった人)の人生を学ぶような双六が宗派から出版されています)。ご興味ある方はぜひご覧頂ければと存じます。

このような経緯もあり、仏教×ボードゲームの地盤はあるのかなと思った次第です。まさに古くて新しい方法と言ってもよいでしょう。次回は、ゲーム化における利点や仏教のどの範囲をゲーム化できるだろうか・・・と考えたお話しをしたいと思います。

ゲーミフィジャパン様に製作協力をいただき、頑張っております。

お寺とアナログゲームが出会うとどうなるのか?ぜひ手にとって、遊んで、知ってください。
そして、お寺、仏さま、お坊さんや仏教そのものを身近に感じていただければと思っております。

出展情報・ゲーム情報など随時更新してまいります。

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